伝統文化とイノベーション
経営大学院の学生の時、「伝統文化産業論」で京都をフィールドワークに訪れたことがある。
京都大原にある茶室「無心庵」にお邪魔し、初めて茶道を体験した。京都の老舗和菓子店「老松」の主人であり、茶人としても活躍し、数々の大学で教鞭をとる太田達氏から直接、ご教示をいただき、茶道の奥の深さを知るとともに、日本の伝統文化が持つ精神性、哲学を学ぶことが出来た。
茶会は単に茶を楽しむ場でもあるが、もてなす側(ホスト)ともてなされる側(ゲスト)との戦いの場、という側面も持っている。門を入るところからホスト側のお持てなしの儀式は始まるが、茶会とは、招待されたゲスト側の教養が試される場なのである。
まずは、茶室の入口の小ささと、狭さ、暗さに驚かされる。茶室の入り口は障子半分くらいの大きさしかない。入室時に上半身だけを入れ、五感で茶室の「気配」を感じ取る。4畳半程のスペースである茶室には、香木が焚かれ、その香りと、先客たちの雰囲気を感じ取る。
そして、徐に茶室に上がると、ホストへの挨拶の後、床の間に掲げられた掛け軸、花を鑑賞し、ホスト側が意図しているこの日の茶会の「テーマ」を理解する。ここはまさに教養が試される場だ。客人がテーマを理解出来なければ、茶会は成立しない。緊迫した場面である。
茶室の間口の小ささや、暗さ、部屋のサイズは、茶会の「気配」を感じ取るために考えられた工夫である。仮に茶室が30畳であったら、香木の匂いが発散してしまうだろうし、そもそもホストとゲストとの気韻が薄れてしまう。茶室は、茶の湯を真剣勝負にするための舞台であり、この広さ、暗さこそが絶妙なのだと思う。
ホストがお茶を淹れ始める。湯が煮立ってくると、鉄釜はグツグツと音を立て始め、湯気が立ち込める。そうすると、ホストは、沸騰する湯に水を一勺指す。グツグツと煮立った鉄釜にシュっという音が立ち、茶室内は静寂に包まれる。茶を中心にホストとゲストが同化する瞬間である。「釜に水を一勺指す」というのは、元来、季節により茶の香気が薄いときに、香気が熱湯で飛んでしまうことを避けたのが始まりであると言われる。水を一勺指すにも、茶葉という「命」を最後まで最大限に活かす知啓があるのだ。
太田先生によると、水を一勺指す、という作法は、既に茶道に形式的に組み込まれているとのことである。香りの高い茶を立てるために、始められた動作が、やがて合理的なものとして茶道の作法の中に組み込まれていく。また、ゲストが茶碗を鑑賞する時に、「膝と肘を付けて鑑賞する」という作法があるが、これは「この高さであれば、茶碗を落としてしまっても割れない」という高さなのだと言う。誤って茶碗を割ってしまわないように自然に行った動作が、茶道の作法として形式化されているのだ。
このように「お持てなしの心」、「相手への気遣い」が茶道の中で形式化され、作法として残り、伝統文化に息づいている。「お持てなしの心」から発生した暗黙知を形式知に転換し、作法として蓄積されたものこそが「茶道の神髄」なのである。
伝統文化は、単に古い物事を伝えるものではない。暗黙知から形式知への転換は、現代においても続いており、常にイノベーションが発生している。茶道だけでなく、伝統文化においては、日々イノベーションが求められ、発生しているのである。だからこそ、現代にも伝わり、進化し、次の時代につながるのだ。