想像の境界線にあるもの
妻が心理学を勉強したい、と突然言い出して、放送大学の科目履修生に申し込んだ。
まずは認定心理士の資格を取り、いずれは、臨床心理士になりたいのだそうだ。妻は共感力に優れており、きっと素晴らしいカウンセラーになると思う。心から応援したい。
そして、妻につられて、僕も放送大学大学院の科目履修生になってしまった。科目は、「美学・芸術学研究」と「日本史史料論」を選択。どちらも魅力的な講義内容であり、今から受講が楽しみだ。
特に理科系の僕からすると、「美学」という学問(特に響き)に強い憧れを持っている。数学科だった僕は、数学の持つ神秘性、美しさに惹かれて専攻したが、美を追求する「美学」は一体、何を勉強するのだろう。今からワクワクしてしまう。
「美」を知るためには「醜」も知る必要があるだろう。人が何を見て、美と感じるのか、美と醜の境界は何なのか。
黄金分割比(フィボナッチ数列と関係する)のような自然が持つ普遍的な美があれば、民族や文化によって尺度が異なる美もある。
「美」は、ある地域では首の長さだったり、足が短いことだったり、寸胴型の体型だったり、民族や文化によって、様々である。そして、個人でも様々である。僕の美学と三島の美学は異なるし、三島と太宰の美学も異なる。(三島は太宰が嫌いなのだ)
そう考えると、「美」というのは非常に掴みどころがない、不思議なものである。
同じようなことは「幸福」にも言えると思う。
高僧に「地獄とはどんなどころですか?」と尋ねると、針山や釜茹といった具体的な苦痛と結びつく答えを言う。しかし、「天国とはどんなところですか?」と質問すると、高僧は答えることができない。大抵、美女がいて、花畑が広がり、美味いものを食べて、酒を飲んでいたりする。天国になると、具体的なものは何もなく、非常に曖昧になる。
「幸福」も「美」も、人間の想像の境界線にあるものではないか。実態がなく、いつもフワフワしており、どこまで追いかけても満足行くものに辿り着けない。人間の知覚で得られるものでは、無いのかもしれない。
だからこそ、人間はいつまでも、「幸福」と「美」に憧れ、追求し、時には翻弄され、終わりの無い旅を続けるのだ。「美学」を学ぶことは、自分の想像の境界を探求する旅でもある。講義を受けるのが、今からとても楽しみでもあり、そして、少し怖い。