鈍感な青年
学生の頃、文学部に通う女友達と、広尾の図書館に通い、よく一緒に勉強をしていた。
入り口に大きな銀杏の樹がある図書館で、黄金色に色づいていたから、あれは11月くらいだったのか。25年前の淡い思い出である。
図書館の静寂の中、隣席で勉強していた彼女から、そっと、下記の和歌を耳打ちされた。
ふたつもじ
うしのつのもじ
すぐなもじ
ゆがみもじとぞ
きみはおぼゆる
「謎掛けなのよ。どんな意味か分かる?」彼女はいたずらに笑いながら静かに言った。数学科の学生だった僕はさっぱり分からずに、答えを乞うと、彼女は優しく微笑みながら、下記のように説明してくれた。
「ふたつもじ」は「こ」、「うしのつのもじ」は「い」、「すぐなもじ」は「し」、「ゆがみもじ」は「く」を意味しているの。繋げると意味は分かるわね?
この歌は、恋しい想いを、知的に謎掛けし、奥ゆかしく相手に伝えているのだという。古の人々も、現代の若者も変わらずに、想いを伝える時は、いつも謎めいていて、奥ゆかしい。
図書館の後は、いつものカフェで遅い時間まで過ごしたが、この日は、コースターの裏に先ほどの和歌を書いてくれた。安っぽいコースターの厚紙と対照的な美しい文字だった。この歌は文字にするとさらに美しく感じる。
謎めいた「こいしく」を残したまま、彼女とは会わなくなり、いつの間にかオトナになってしまった。
しばらくして、僕は丸谷才一の「鈍感な青年」という短編を読んだのだが、この小説の舞台が、当時通っていた広尾の図書館であることに気付き、驚きとともに、当時の記憶が一気に蘇った。入り口の銀杏についての記載もあり、あの図書館に間違いない。この短編は、図書館で一緒に勉強する若い男女の話であり、奥ゆかしく、謎めいていて、艶かしいのである。(僕はこの小説の最後にあるような失敗はしなかった)
「鈍感な青年」を読むと、一気に二十歳に戻ってしまう。僕も「鈍感」だったのかもしれない。もし、あの謎かけのような和歌の意味を理解し、応えていたら、どのような人生になっていただろう?都心の銀杏が色付き始めると、いつも想い出す記憶なのである。そんな記憶が人生には必要なのだ。そして、たまに思い出すのが良い。