NAMOAMIDABU
通勤時に読んでいた五木寛之の「親鸞」があまりに面白かったので、その流れで「歎異抄」を読了。
阿弥陀仏は、数ある仏様の中でも、極楽浄土へのガイド役として知られているが、浄土真宗は「南無阿弥陀仏(南無はどうかおねがいします、の意)」とひたすらに念仏を唱えることにより、誰でも浄土に行けるよ、という考え方が教義の中心になっている。
厳しい修行をしないで、唱えるだけだから、とても簡単。そうやってすがっていれば、阿弥陀仏がリードしてくれる。これを「他力本願」と言う。「他力」とは阿弥陀のリードする力のこと。「本願」は阿弥陀が衆生をもれなく救おうという誓い。罪深いものほど、すがる気持ちが強い。だから阿弥陀仏も救い上げようとする。いわんや悪人をや。
天台宗はエリート志向(教典主義)、真言宗は厳しい修行ありき(修行主義)なので、浄土真宗(念佛主義)が民衆受けするのも納得である。文字が読めなくても、厳しい修行をせずとも、ただ唱えるだけで良いのだ。
民衆の間では「なもあみだぶ」と語形が変化するが、変化するところも庶民に近い宗教だったのだと感じる。民衆は「南無阿弥陀仏」の意味も分からず、ただ、音として「なもあみだぶ」と唱えていたのだ。生活の様々なところで、「なもあみだぶ」と唱えている姿が目に浮かぶ。
宗教は仏・神というメタファーを通して、宗教者の人生観が体系化されたものだと思っている。特に仏教は、中興の祖によって、様々な解釈がされるが、「歎異抄」には、親鸞の人生観が詰まっていて興味深い。親鸞の言うことは、シンプルだ。
「他力」に従って、イージーに生きていこうよ。そのうち阿弥陀様がリードしてくれるからさ。
そのためのスローガンが「なもあみだぶ」なのである。
今の時代こそ、「なもあみだぶ」は必要なのではないか。「他力」に従って、ジタバタせずにイージーに生きていきたい。