ムダなことなどひとつもない
天台宗の最も厳しい修行に「千日回峰行」というものがある。
一度、この行を始めたら、途中で止めることは許されない。行を続けられなくなったときは自害する掟となっており、行者は、自害のための「死出紐」と、短剣、埋葬料10万円を常時携行している。
全体で9年に渡って、行う厳しい行で、最初の5年間は深夜2時に出発し、真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30 km を平均6時間で巡拝する。
5年間歩いた後は、最も過酷と言われる「堂入り」が行われる。入堂前には「生き葬式」を行い、9日間にわたる断食・断水・断眠・断臥(横になれない)の四無行に入る。堂入り中は、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。水を汲みに出る以外は、堂中で10万回真言を唱え続ける。
厳しい業火の中で、ひたすら真言を唱えると、やがて、行者の目は爛々と輝き、生気を取り戻し、不動明王と一体となる。神秘的な瞬間である。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる「阿闍梨」となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入る。自分のために歩くのではなく、衆生救済のために歩くのである。
6年目にはこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60 km の行程を100日続ける。7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84 km におよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30 km の行程に戻る・・・文章で書くだけでも、想像を絶するクレイジーな行だが、この「千日回峰行」を2回行った人物がいる。現代の〝生き仏〟と称される酒井雄哉・大阿闍梨だ。
酒井大阿闍梨は、「寺ですることだけが修行ではないよ。誰にとっても、生きていることが修行なんだな」と優しく語りかけてくれる。仏教においては、上も下もない。生きている間は、皆、等しく行の中におり、厳しい修行を経て、生きとし生けるものは、いずれ仏になる。キリスト教的な宗教観と決定的に異なるところだ。
仏教はフラットである。「菩薩」でさえ、次のランクである「如来」になるための修行中の身なのだ。
いろいろな人がいて、各々人生をもがき、苦悩しながら、修行を進めている。
生きることは、修行であり、それゆえ、人生で起きること全てに意味がある。ムダなことなどひとつもないのだ。